行間を読むと言いますが、その一歩手前の行自体も読めない生徒が増えてきているような気がします。それは漢字が読めないとか言葉の意味が分からないといった些末的なことではなくて、何が書いてあったかの全体的な理解、もしくは部分的な理解ができないということです。従って、読後の感想というのか、内容に対しての自分なりの考えとかいった主観的なものも言葉にすることができないということです。
文学的文章であれば現実的な物語もあるし、ファンタジーのような虚構性の強い物語もあります。どのような物語であっても私たちは作者の作った制約の下に物語を読むことが必要になってきます。その最低限度のルールを破れば内容理解以前の問題で、字面を目で追いかける作業に徹することになります。この「字面を目で追いかける作業」をしている生徒が最近増えてきているように感じられます。
この単に「字面を目で追いかける作業」を意味ある作業に格上げするには何らかの働きかけが必要です。それは設問に対しての解答の意識付けや文章構成を意識的に捉えること、外からの内容確認質疑などが有効であると思われます。最後の内容確認以外は個人のレベルで取り組むことになりますが、最後の内容確認質疑が最も重要な働きかけになってきます。自分から読み解くことが出来ないのであれば誰かに促してもらって、きっかけを作っていくことが必要になります。実際に小学校の低学年においては教師からの働きかけがほとんどです。小学一年生に自分一人で本を読んで感想を書かせることはまず出来ません。この状態がまさに「字面を目で追いかける作業」を生み出しているのではないでしょうか。高学年になるにつれて、自分に任される作業の領域は広がっていきます。しかし、それに対する適応は個々に違っています。学校や大人からの働きかけが功を奏さず高学年となってしまう生徒がいることは容易に想像が出来ます。
大人になればある程度の経験を経て文章を理解することができるようになりますが、子どもにはその経験自体が欠如しています。それを補うものが読書であるのではないでしょうか。 字面の向こう側にある意図に近づくことが出来るようになるように声を掛け続けていくしかありません。(吉川)