「国語が嫌い」と「国語が苦手」とでは同じマイナスの意義で捉えることができますが、その正確な意味には大きな違いがあります。また「国語が好き」と「国語が得意」もプラスの意義で捉えることにはできますが、意味の上では違いがあります。私としては、「国語が好き」で「国語が得意」な生徒が増えてくれれば嬉しいのですが、残念ながら最近の生徒の傾向では「国語が嫌い」で「国語が苦手」になりつつあるようです。しかし、面白いことに「国語が嫌い」だけど「国語が得意」な生徒もいれば「国語が好き」だけど「国語の成績は良くない」という生徒もいます。もちろんこれは国語に限ったことではなくて、どの教科にも言えることです。これらのニュアンスに関して私が特に感じるのは「国語が嫌い」とか「国語が苦手」をよく口にして成績の向上しない生徒の取り組みについて、「嫌い」だからやらない「苦手だから」手をつけないという一種の逃げ口上としてこれらのワードが多用されていることの危険性が垣間見えることです。
嫌いなことはしなくていいというのが昨今の風潮になりつつありますが、どこかで待ったを掛けるシステムは必要であると私は思います。もちろん時と場合に寄りますが、何かを強要されることでストレスを感じるのは動物としての性です。ただし、人間社会においては耐える先の個々の成長がなければ、上手に馴染んでいくことはできないと思います。ピーマンを食べなくて良いとか、自転車に乗れなくてもいいといった次元の話では無く、あくまでももっと人間として生きるための本質の部分を養成していく努力は欠くことが出来ないはずです。「嫌いだからやらない」「苦手だからやらない」人で溢れた社会とは一体どんな社会になっていくのでしょうか。そら恐ろしい気がします。(吉川)