オノマトペについて書かれた文章を最近よく目にします。擬声語とか擬態語などと呼ばれるものがそれなのですが、日本語では食に関してそれが沢山あるようなのです。外国語でもそれはもちろんあるのですが、なんで日本語に特に食に関して多いのかは興味深いところではあります。そもそも食に関して私自身はあまり欲深くありません。毎日、納豆や海苔、ふりかけでも何の不満もありません。そんな私でも「パリパリとした海苔」だとか「ねばねばした納豆」などは食に関するオノマトペとして使用頻度の高い言葉であります。
何で日本語には食に関するオノマトペが多いのか、最近読んだ文章ではこんなことが書いてありました。日本人は古来何でも食材にしてきて、その調理方法も多岐にわたっているので、できあがった料理は「生」であったり、「蒸す」「焼く」「炙る」「いぶす」「煮る」など様々な過程を経てきているので、それぞれの形状、状態、食感を表す言葉が多々存在する。そんなようなことが書いてありました。至極納得できる意見であるように思います。
ただし、考えてみれば言葉自体は他者に意思を伝達することを前提に発明されたものです。自分が感じた感覚を他人に伝えるための道具であるならば、「パリパリ」や「ねばねば」は受け取る誰かがいなければなりません。今は一人でもSNSなどから発信することもできますが、基本は家族の食卓であったり、仲間との食事であったり、食の場を共有し言葉のやりとりを重ねることでそれらの言葉は増殖してきたのかもしれません。そう考えるとオノマトペには何か叙情的なものを感じてしまいます。