母が愛用している自転車がパンクしてしまいました。我が家では車や電化製品などに故障が発生した際には父親の出番と相場が決まっていました。もともと手先の器用な父は機械いじりなども好きで、家の中のあらゆるものを自分で修理していました。今回も母が父にパンクの修理依頼し、それを父が行いました。
今週の日曜日、昼過ぎまでの自治会活動を終えて私が帰宅すると、庭には前輪を失った自転車と部品が散乱していました。傍らで項垂れる父に事情を聞いてみると、パンクは直したが、元のように自転車を組み立てることが出来なくなったと返答がありました。かつては難なく作業をこなしていた父が、寄る年波というのでありましょうか、目の前にある状況を突きつけられて私としては少し寂しいような悲しいような気持ちになってしまいました。親が、人が年を取るということはこういうことなのでしょう。もちろんこういう日がいつか来るであろうことは分かっていたつもりですが、実際に目の当たりすると感傷的にならざるを得ません。
しかし私以上にショックを受けていたのは父親本人です。私たち家族には一切謝罪などしたことのない父が、私に「手間を掛けさせてすまない。」と頭を垂れました。わたしにとってはこちらの方が胸に応えました。いっそ、「パンクさせた奴が悪い」と悪態を付いてくれた方が昔の父らしく、私にこんな感慨を起こさせなかったろうと考えてしまいました。
目の前にこの分解された自転車を置いとくことに残酷さを覚え、午後からの自治会の活動をキャンセルして、近所の自転車屋さんまで自転車の残骸を運び込み、何とか自転車は再生しました。修理代もさることながら、それ以上に老いた父の姿に寂寞とした気持ちになった一日でした。