グローバル化への疑問符

 朝日新聞に2日連続で2人のヨーロッパの学者からグローバル化に疑問を呈する論考が載りました。ひとつはドイツの社会学者ヴォルフガング・シュトレークさんの「グローバル化への反乱」(2016/11/22)、もうひとつはフランスの経済学者トマ・ピケティさんの「グローバル化変えるとき」(11/23)です。いずれも、アメリカ大統領選挙の結果からの考察であることは、想像に難くないところです。
 お二人の論考に共通して言えることは、グローバル化を目指す自由貿易を追求することは、国内での格差の増大をもたらす、との視点でした。
日本もヨーロッパもアメリカも、そしてBRICSと呼ばれる国々も、今やどこもかしこも国内経済が疲弊しています。こんなとき、「お互いの利益」追求よりも、まずは「自国の利益」を優先するのは、ある意味当然のことのように思われます。ここに、トランプ氏のつけ込む余地があったと言えるのではないでしょうか。
 歴史を見ると、たとえば産業革命に端を発する帝国主義の時代、あるいは第二次世界大戦直前にとられたブロック経済の時代に逆戻りするような気もしないではありません。もしもそうなれば、今度は保護主義に徹してなんとか生き延びられる国と、国内経済だけでは生き延びることが出来ない国との国家的格差が更に助長されることになるでしょう。そうなると、国家そのものの倒壊が増大し、独裁者が登場し、国と国の争いが激化し、ますます歴史を逆回転させることにつながるかも知れません。

 私の勝手な想像はここまでにしましょう。ただ、ヴォルフガング・シュトレークさんとトマ・ピケティさんが指摘された、グローバル化への疑問符は、私にはとても共鳴するものでした。そもそも、グローバル化などという言葉は、パソコンやケータイなどと同様、それほど昔からあった言葉ではありません。教育界がこぞって「グローバル化に向けた教育」を我先に言い出したのもつい最近のことです。しかし、日本にはそれよりも何百年も前から教育の基本とされているものがあります。すなわち、「読み・書き・ソロバン」です。
 たしかに世の中は急激にグローバル化してきました。しかし、だからといってそれに迎合するような教育方針には疑問を感じますし、江戸時代の子供よりも平成時代の子供の能力が勝っているとも思えません。しかるに、従来の「読み・書き・ソロバン」つまり、国語・算数に加えて、グローバル化の中で、国際理解だ、英語教育だと学習範囲が広がっています。われわれはこの大きな流れに飲み込まれ、逆らうことなく、ただ流されているように思えるのです。小学校での英語教育も結構ですが、まともに日本語を解せない小学生がたくさんいることも事実です。いや、小学生ばかりではなく、高校生も、大学生も、さらには社会人でもまともな文章を書ける人間はそう多くはありません。
 「ディベート」なる言葉も私の若い頃には聞いたことがありません。この空虚な言葉は、日本人の感覚における「話し合い」とは似て非なるように私には思われます。自分の考えを相手に説き伏せるのではなく、相手の立場に立って話をよく聞くところに日本人の持ついたわりの心があったのではないでしょうか。こんなことが忘れ去られようとするのも、グローバル化のなせる技なのでしょう。

 イギリスのEU離脱、トランプアメリカ大統領の登場、ヨーロッパではびこるポピュリズム、カストロの死。世界中が大きく動こうとしています。
 こんな時こそ、われわれはもっと自分たちの足もとを見つめなければならないのではないでしょうか。押し寄せるグローバル化の波を客観的に見つめつつも、それに飲み込まれることなく、日本人の精神を忘れずに謙虚に生きる。このような若者が増えることを信じています。